ちんぶろ

好きな人や物が多すぎる女子の活動記録、雑感、あれやこれやをちぎっては投げちぎっては投げ

自分の手で鶏を絞めて食べて、実感したこと

   


いとしまシェアハウスで鶏を絞めて食べる体験をしてきた。

講師は、シェアハウスの住人であり、猟師でもある、ちはるちゃん。

わたしがちはるちゃんのことを初めて知ったのは、去年のはじめに、TLに流れてきたブログのこの記事を読んだのがきっかけ。

普通の女子が鴨を絞めて、お雑煮にしたお話。 | ちはるの森

震災以来、あたりまえだと思っていたけれど、実は一概にそうとは言えなかった、日常を送ることに疑問を抱くひとたちはたくさんいると思うけれど、これだけ思い切って行動してみるなんてすごい女の子だなあ、と思った。

と、その一年後に偶然福岡のあるイベントで知人に紹介されて、
「え!!!いま福岡に住んでるんですか!?」
とびっくり仰天。まさか、こんなに近くにいたなんて!

その数カ月後に彼女は糸島でシェアハウスを始めて、今では7人の家族(と、シェアメイトさんたちが呼び合っているのがとても素敵だったのでそのまま使わせていただく)と家を作りながら生き物を育てながら、田畑を耕しながら、暮らしている。

さて、当日。
まず午前中は、ちはるちゃんによるお話。
なぜ「食べること」を意識するようになったのか、移住することを決意したのか、実際に目で見てきた、鶏に関する流通の現状、屠殺の方法の解説、などなど。

この時点で、知らなかったことばかりでほうっと息を吐く。
ひととおり説明が終わったところで、シェアハウスの住人であり料理人でもあるこういちさんがおひるごはんを作ってくれた。
お肉を一切使っていないお料理。とっても美味しくておかわりしてしまった。

そして、午後からはいよいよ実際に屠殺と解体を。

今回は3羽の鶏を16人で絞めるので、3チームに分かれて、それぞれ役割分担をすることに。


4年くらい平飼いされていた鶏。大きいしすばしっこくて、捕まえるのにとても苦労する。


わたしがいたチームが受け取ったのは、参加者のおひとりが自宅から持ってきてくださった、烏骨鶏。
他の鶏と違って小さくておとなしくて、鳴き声もピィピィと可愛い。
抱えると柔らかくてあたたかい。
なんとも表現しがたい、複雑な気持ちになってきた。

鶏をお肉にするためには、鶏を絶命させる必要がある。
まず初めに、鶏が苦しまないように、失神させないといけない。

今回は、鶏が苦しむ時間をなるべく短く済ませるために「棒で殴る」か「窒息させる」かどちらかを選ぶということだったのだけれど、わたしは「棒で殴る」役目を買って出た。
というのも、そもそもこの体験に参加しようと思ったきっかけが、さきほど紹介したちはるちゃんのブログに書かれていた、この言葉だったから。

憎くもないのに殴るって、すごく難しい。
というか、殴るっていう行為自体やったことない。

殴りながら、自分は一体何してるんだろうって思った。
この鴨悪くないのに何で殴るんだろうって。

殴ることも出来ないくせに、お肉食べてたのかーと思ったり。

このテキストを読んだときに、たしかに“憎くもないのに殴る”経験なんてしたことがないし、そもそもわたしも殴るという行為をしたことがないな、とハッとした。
お肉を食べる、ということは、生き物を殺すことから始まる。
あたりまえのことなのだけれど、普段はスーパーに並ぶお肉の姿があたりまえすぎて、意識の外に追いやられていること。

いのちをいただく(こうして言葉にしてしまうと、なんだか陳腐な言葉になってしまいそうで、歯痒い)ということを本当に体感するためには、この工程を自分でやらなければ、と思った。

ありがたいことに、この工程の担当には何人か立候補があったのだけれど、手を挙げた他の参加者の方々が快く役割を譲ってくださって、無事に当初の目的を達成することができた。

この棒で、烏骨鶏を殴って失神させた。
どれくらいの力を入れたらいいのかもわからなかったし、とにかく苦しみが長引かないように、失敗しないようにとものすごく気を遣って振り下ろしたつもりだったのだけれど、力の入れ方が上手にできずに、結局3回も振り下ろすことになってしまった。
手応えそのものは想像以上に軽くって、あれ、なんてあっけないのだ…?と不思議なほどだったけれど、きちんと一発で失神させられなかった申し訳なさに、気づいたら何度もごめんなさいと口走っていた。

そのあとは、血抜きをしたり、羽を抜いたり(あとでアクセサリーに生まれ変わる)、ひたすら解体のための準備をした。
すごくびっくりしたのだけれど、烏骨鶏は皮もお肉も内蔵までも真っ黒!!!!
ふつうの鶏肉と一緒にスーパーに売られていたら、きっと手に取ろうとは思わない…。
どんな味がするのか想像もつかない。

一羽はそのまままるっと使って、韓国料理のタッカンマリに。
解体したあとの鶏肉は、鶏それぞれの内蔵やお肉の味をしっかりと味わうために、焼き鳥に。

さくーっと書いたけど、鶏を絞めるところから、焼き鳥の下拵えが終了するまで、トータル5時間くらいかかった!!!
最後は気力を振り絞ってひたすらお肉を切り分けて、串に鶏肉を刺し続けていたw

そして出来上がったお料理。

真ん中のお皿に乗っている黒いのが、烏骨鶏のお肉。


家の中で焼き鳥。
冷静に今考えると結構大胆なことしてる…!
自分たちで絞めた烏骨鶏のお肉は、皮もお肉も内蔵も、どこをとってもすごくすごく深い味がして、それはそれは美味しかった。
滋味芳醇。地鶏の味に近いけれど、もっと独特の。
3羽は余すところなく、その場の20人以上がおなかいっぱいになるくらい、満たしてくれました。
ごちそうさま。

さてさて。
この体験を通して、わたしがスーパーで100グラム98円のお肉は買わない!とか、もうお肉を食べない!とか、自給自足の生活を始めたい!とか、そんな決意をするに至ったか?というと、そういう気持ちにはならなかった。
もう、びっくりするくらい。
それ自体への賛否は正直まったくわからないし、少なくともすぐに答えが出ることではないと思う。

でも、ひとつ確かに言えることは、どんなにがんばって想像しても意味がつかめなかったものごとは、自分の手でやってみないと実感を得ることができなかった、ということ。

でもきっとこういうことって、子供のうちに気づくタイミングはいくらでもあったのだろうなあ。
たとえば、小学校の飼育小屋で買われていた鶏やうさぎを世話しているときとか。
当番が回ってきたら小屋に行って、掃除して、水を替えて、餌をやって、ときどき可愛がって、その繰り返しで、そこからわたしは一体なにを学んだだろう?
「なにを学んだだろう?」という疑問を、いつ抱いただろう?

もしかすると、世の中に疑問を持たないようにできているのかもしれない、教育や、社会というのは。
きっと、それではだめなんだと思うけれど。

おとなになっても、自分でやってみるまで世の中の仕組みや考え方を知ろうともしなかったなんて、恥ずかしくてしょうがないのだけれど、いま、気づけてよかったと思う。
このタイミングで鶏を絞める体験ができたことはすごくよかったと思うし、できればいろんなひとに自分の手で体験してもらいたいなと思った。

こんな機会をいただけたこと、とても感謝している。
ちはるちゃんをはじめ、ご協力くださった いとしまシェアハウスのみなさま、一緒に参加していろんな意見を聞かせてくださったみなさま、ありがとうございました。

ちなみに いとしまシェアハウスは、ときどきオープンハウスやライブ、マルシェもやってるみたい。
都心部である天神から電車で一時間もかからず行けるので(このびっくりするくらいのコンパクト感が福岡のよいところだ)機会があったらぜひ足を運んでみてください。

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