ちんぶろ

好きな人や物が多すぎる女子の活動記録、雑感、あれやこれやをちぎっては投げちぎっては投げ

谷口暁彦「超・いま・ここ」に感じたアウラ

   

西麻布のギャラリーCALM & PUNK GALLERYに、谷口暁彦さんの個展「超・いま・ここ」を観に行った。

(わたしは谷口さんとなべたんさんの思い出横丁情報科学芸術アカデミーがずっと大好きで、連載を読んだりUstreamの生放送を観たり、インターネット・リアリティ研究会のイベントを覗いたり一方的に追いかけております)


『思い過ごすものたち』の一部。
流れる水によって画面上のキーボードがタッチされて、立ち上がっているメモ帳アプリにランダムにアルファベットがタイプされる作品。
てんで出鱈目な並びなのに、ときどき予測変換で「volvic」という単語だけがはっきり表示される。


お菓子の箱を積み上げて3Dスキャンしたあと、表面のテクスチャデータだけを取り出して印刷し、白く塗りつぶしたお菓子の箱に貼り付けた物体と、印刷して額装したテクスチャデータをもう一度撮影し、形態を記録したメッシュデータに画面上で重ね合わせた作品『スキンケア』。

それにしても写真でみるとなんのこっちゃ全然わからないな。

その他の過去作品もとてもよかったんです。

マリオを操作しながらジャンプすれば、過去に同じ場所で同じようにジャンプする作者とつながる。
カーソルを動かせば、同じ方向へ移動する様々なシチュエーションの動画が連動して再生される。
壁にかかった時計の隣に、24時間前に撮影された、同じ時計の映像が流れる。
画面の中のオットセイが鳴く。その動きに合わせて本がパタパタと開閉する。
扇風機の風で揺れるのはiPadの中のティッシュペーパー。
(あと展示されてなかったけれど『私のようなもの/見ることについて』はDMM VR THEATERで観たVRDG+hで披露されたときにめちゃくちゃよくて、ICCにも観に行って、今でも大好きな作品)

でもiPhoneのカメラロールに収めようとは思わなかった。
たぶんそれこそが、この作品たちの「超・いま・ここ」を失わせる行為になってしまうような気がしたから。

複製技術時代以降の芸術から「いま」「ここ」にしか存在しないアウラは失われたとベンヤミンは言った。
ビデオアートの先駆者、ナム・ジュン・パイクは、視覚メディアであるブラウン管を、大量生産・同規格の装置として、あえてアウラを削ぎ落とす手段として用い、その結果新たな価値観を生み出していた。
しかし、数年前にエキソニモの個展を観に行ったときに感じたのと同じように、ここで展示されている作品は技術的にはコピーできても“肝心なところ”はコピーできまいという強い気持ちにさせられる。

技術の発達によって、ディスプレイはオリジナルを複製するための道具ではなく、一度はアウラを剥奪されて複製可能なものとして生まれ変わった芸術作品に、再びアウラを纏わせるための触媒として進化?したのかもしれない。
つまり、旧時代のアートにのみ許されていた「いま・ここ」は、録画や録音、高解像度の出力装置、リアルタイム処理が可能な高性能のCPUをはじめとするメディアによって、時空を越えた、次元を超えた「超・いま・ここ」を手に入れた。

そしてそういった状況の中でディスプレイをどう捉えるか、あるいは無視するか、ゼロからつくりあげるか、みたいなことを考えながらつくられる作品(あるいは作家)が“ディスプレイ派”なんじゃないかなというのが今のところのわたしの想像。(そう、あくまで想像です)

いつものようにつらつらと思ったことを書いてまいりましたが、本当に個人の感想でしかないので、全然的外れなことを言っている可能性も大いにある。
でもいいんです。好きなものについて好きなように考えて、自由に感想を書きたかったという、それだけ。

すごい楽しかった。ありがとうございました。

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